ジョン万次郎の歴史
1827年 | 0才 | 土佐の国中浜村谷前の漁師、悦介・母汐の次男として生れる。 |
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1840年 | 13才 | 9才の時父死亡、10才で、中浜浦老役、今津嘉平宅の下働きに出る。 |
1841年 | 14才 | 正月5日足摺岬でのアジ、サバ漁中に漂流(10日間)九死に一生を得て、南海の孤島(鳥島)に漂着、わずかな留水と海草、海鳥を食して143日間も生きながらえる。 |
1841年 1842年 |
15才 16才 |
米国捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、ホイットフィールド船長の保護を受ける。 漂流仲間とはホノルルで別れ、万次郎1人捕鯨船員として、太平洋へ乗り出す。 |
1843年 1846年 |
16才 18才 |
船長の故郷マサチューセッツ州、フェアヘーブンに帰港。オックスフオード校(初級)バートレット専門学校(上級)で、英語、数学、測量、航海、造船等の教育を受ける。 |
1846年 1849年 |
19才 22才 |
米国一流の捕鯨船フランクリン号の航海士として乗船し、大西洋から喜望峰をまわり、インド洋、更に大西洋での捕鯨航海へと、文字通り「7つの海」をかけ巡る。 ホノルルにも立寄り、仲間と再会する。1848年7月一等航海士副船長となる。 |
1850年 | 23才 | アドベンチャー号を購入し、伝蔵(筆之丞)、右衛門の3人で母国へ帰る便船、サラボイド号の人となる。 |
1851年 | 24才 | 沖縄本島(琉球国摩文仁間切小渡浜)に上陸。 |
1852年 | 25才 | 那覇-翁長-島津藩鹿児島-長崎奉行所(白州での尋問18回に及ぶ)土佐藩主山内豊信公の命により、吉田東洋から70日の取り調べを受ける。 実に11年10ケ月ぶりに母汐との再会がかなう。(わずか5日間) |
1852年 | 26才 | 土佐藩の士分に取り立てられ、高知城下の藩校「教授館」の教授となる。この時、後藤象二郎、岩崎弥太郎等が直接指導を受けている。 |
1853年 | 26才 | 老中首席阿部伊勢守からの召喚状が土佐藩の万次郎に届き、江川太郎左衛門の手附(秘書位)を拝命に、ご普請役格としての「幕府直参」となる。この時、生れ故郷の地名を苗字として「中浜万次郎」を名のる。 |
1855年 1857年 |
28才 30才 |
安政2年(1855)わが国最初の航海学書・年表(アメリカ合衆国航海学書)を筆書し、つづいて安政6年に英会話書(英米対話捷径)を編集する。 ●西洋型帆船を伊豆で建造(直接指導)に当る。 ●安政4年4月、軍艦教授所教授を拝任 ●安政4年10月、捕鯨術教授のため箱館へ出発(箱館奉行所与力次席) |
1860年 | 33才 | 批淮使節団の一員として、「咸臨丸」に乗り組む。艦長勝海舟、教授方通弁主務中浜万次郎他総勢96名、後の慶応義塾大学長福沢諭吉(当時26才)も同行し、共にウェブスターの英語辞書を購入したエピソードは有名である。 |
1861年 | 34才 35才 |
●外国奉行水野筑後守忠徳に同行し、小笠原諸島(父島、母島)の調査と図面造りをする。 |
1864年 | 37才 | ●文久2年7月(1862)妻鉄病死(病死) |
1866年 | 39才 | ●薩摩藩の開成所教授となり、航海、造船、測量、英語を教授する。土佐藩主山内容堂公の依頼により、後藤象二郎等と藩校「開成館」の設立に寄与する。また二人は上海に渡り、土佐藩船を購入する。 |
1869年 | 42才 | ●明治政府の命を受け、開成学校(現東京大学)の徴士(二等教授)となり明治3年には、中博士(教授)となって、最高学府の教壇に立つ。 |
1870年 | 43才 | ●普仏戦争視察の一員として、ヨーロッパ出張。 |
1871年~ 1898年 |
44才~ 71才 |
●ロンドンから帰って間もなく、軽い脳溢血を起して倒れ、程なく全快するが、以後政治の全面には出ず、波乱万丈の半生に比べて誠に静かな晩年を送る。その間、中浜にも数度帰省し、老母(明治12年に86才で病死)を見舞った。 ●東京京橋弓町長男中浜東一郎医博(岡山医学校教授)宅で71才の生涯を終える。 |